徳川家康の生涯

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こんにちはおすまし

The GATE HAMAMATSU、本日は浜松城築城450周年コーナーより、
徳川家康公の生涯と、浜松にまつわるエピソードをご紹介していきますキラキラ

浜松の公式ゆるキャラといえば、みなさんご存知「出世大名家康くん」。

Hello

可愛いですね~。

このように、浜松市はけっこうがっつりと家康公をPRしているのですが、
意外と当館にお越しのお客様には「家康って三河と静岡でしょう?なんで浜松なの?」
といったご質問を受けることが多々あります。

そんな時はよくぞ聞いてくださいましたとばかりにご説明しているのですが、
今日はその内容をこのブログ記事で熱く語っていこうと思います♪


徳川家康の生涯

こちらの展示コーナーに入っていくと、奥に現れるのが、この年表。
家康公が生まれてから、天下統一を果たしその生涯を終えるまでの流れがこの年表に載っており、
年表の下の部分には赤い線で家康公が浜松城に在城していた時期が示されています。

徳川家康の生涯


こちらの写真では少々読みづらいかと思いますので、家康の生涯にまつわる部分を下記にまとめました。



1542年(天文11年) 三河国岡崎に生まれる(1歳) 氏名:松平竹千代

1547年(天文16年) 今川氏の人質として駿府へ向かう途中連れ去られ、織田信秀へ売られる。(6歳)

1549年(天文18年) 父弘忠暗殺。今川義元の人質となり駿府へ移る。(8歳)

1557年(弘治3年)  義元の姪、築山殿と結婚、元康と改名する。(16歳)

1559年(永禄2年)  墓参に岡崎へ帰る。元康と改名する。(18歳)

1560年(永禄3年)  桶狭間にて織田信長が今川義元を討ち取る。(19歳)

1563年(永禄6年)  長男信康、信長の娘篤姫と婚約。名を家康と改める。三河一向一揆鎮圧へ。(22歳)

1566年(永禄9年)  姓を徳川と改める。(25歳)

1570年(元亀元年) 岡崎より浜松へ移る。姉川の戦で朝倉軍を破る。(29歳)

1572年(元亀3年)  三方ヶ原の合戦で敗北する。(31歳)

1575年(天正3年)  長篠の戦いで武田勝頼軍を撃破。(34歳)

1579年(天正7年)  三男徳川秀忠(二代将軍)誕生。   
            正室築山御前の死と嫡男信康の自害。 (38歳)

1582年(天正10年) 武田氏滅亡、駿河国を領す。本能寺の変で信長自害する。
            堺の家康伊賀越えで危機を脱し岡崎へ帰る。(39歳)
  
1586年(天正14年) 秀吉との盟約なり朝日姫をめとる。大坂城で秀吉と対面する。
            浜松から駿府城へ移り、甲信の経略を進める。(45歳)

1590年(天正18年) 秀吉からの移封命令により、江戸城を居城とする。(59歳)

1600年(慶長5年)  関ヶ原の合戦で大勝する。(59歳)

1604年(慶長8年)  征夷大将軍となり江戸幕府を開く。(62歳)

1607年(慶長12年) 駿府へ隠退する。(66歳)

1616年(元和2年)  調停より太政大臣に任じられる。四月病状悪化。17日卒する。久能山に葬る。(75歳)



上記の年表から、家康公は姓を徳川と名乗った後、29歳から45歳までのおよそ16年間、浜松に在城していたことがわかりますね。
この浜松城にいる間に、家臣にも恵まれた家康公は目覚ましいほどの活躍をし天下統一に向けての出世をしていくのですが、
実際に起こったことを振り返ると、家康公ご自身にとって、浜松は苦い思い出の多い場所なのかもしれません。
特に有名な史実はこちらのふたつ。


①三方ヶ原合戦での敗北

家康公が浜松に移った後、甲斐(現在の山梨)の虎と呼ばれる武田信玄が織田信長を倒すための進軍を阻止するため、
三方ヶ原にて戦を行いましたが、結果は大敗。

昨日投稿した家康の散歩道のルートには、この三方ヶ原の合戦にまつわるスポットが沢山ありますので、
ぜひそちらもご覧くださいね!

特に、私がおススメなのが⑨犀ケ崖(さいががけ)古戦場

三方ヶ原合戦で大敗を喫した家康公が、武田軍に一矢報いるべく、鉄砲隊を率いて夜襲をかけた場所です。
地理不案内な武田軍は混乱し、次々と深い谷へ転落し多くの命を失ったそうです。
この翌々年から、崖の下から人や馬のうめき声が聞こえるようになり、
また付近で怪我をする者が相次ぐなど良くないことが続いたため、
武田軍の祟りを鎮めるため、この戦いによる死者を弔うための「遠州大念仏」という行事を毎年行うようになったそうです。

住宅街の中で、すぐそばに大通りがあるにも関わらず、この犀ケ崖の谷はうっそうと茂った木々で薄暗く、
子供のころはとにかく近寄りたくない、怖いスポットでした…。
夜寝る前に、血だらけの落ち武者の幽霊の姿を想像してしまってとにかく怯えていたのを覚えています笑



②正室築山御前と嫡男信康の死

1579年、家康公38歳の時、敵方と内通したとの疑いで、正室である築山御前と嫡男である信康を処刑しました。
これには諸説ありますが、主君である織田信長の手前とはいえ、
ご自身の家族を処刑するというのは、その生涯で最も辛い決断だったことでしょう。

信康は二俣城で切腹をし、築山御前は佐鳴湖付近で命を奪われました。
その際、築山御前の血の付いた刀を洗ったとされるのが、太刀洗(たちあらい)の池
現在は池は埋め立てられ、少し離れた浜松医療センター駐車場の片隅に碑が残っています。

また、築山御前の霊廟が置かれている西来院(せいらいいん)は、
冬は椿、春には藤の花が咲き、訪れる人の目を楽しませています。

徳川家康の生涯

こちらは今年1月に訪れた時の写真です。静謐な雰囲気ですね。

もちろんどちらも家康の散歩道ルートに掲載された場所となります。



以上、かなり暗いエピソードが続いてしまいましたが、
このような辛い出来事があった浜松での時期があったからこそ、
家康公はその後の天下統一を成し遂げられたのではないかと思います。

Cry


今回は徳川家康公の生涯と、浜松での出来事を紹介させていただきました!
次回もお楽しみに♪

徳川家康の生涯




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